八代亜紀さんをご存知ですか?2024年の24時間テレビで追悼の特集が組まれていました。
この記事では2023年の年末に残念ながらご逝去された、八代亜紀さんについて
気になる「膠原病」や「人柄」など、まとめています。
八代亜紀さんの歩んできた道
出身地
熊本県八代郡(くまもとけん やつしろぐん)
現在の熊本県八代市(くまもとけんやつしろし)です。
芸人のゴリけんさんも八代市出身ですよね。
熊本城がある熊本市よりも地図で言うと下の方。八代海(やつしろかい)に面しています。
八代海には天草諸島(あまくさしょとう)があって、八代からは上島(かみしま)が近いです。
本名
橋本明代(はしもとあきよ)
八代出身なので名字を八代に。読み方はこのとき「やしろ」に変更。
本名の「あきよ」から「あき」を。
亜細亜(アジア)の亜 と、世紀の紀。
アジアで何世紀も活躍できるようにと命名されました。
歌手を目指したきっかけ
小さい頃から歌が好き。
とくにお父さんが歌ってくれた浪曲(ろうきょく)を覚えて、披露していたそう。
浪曲というのは、三味線の伴奏に合わせて、独特の節と語りで話す話芸のこと。浪花節(なにわぶし)ともいいます。
浪曲には歌謡浪曲というのがあって、三味線を使わずに洋楽器を用いる浪曲。歌謡曲に近い浪曲だそう。
戦後の時代はこちらが主流になってきたといいます。八代さんの父親が歌っていたという浪曲は、八代さんの生まれた年を考えると、歌謡浪曲の方かもしれませんね。
八代さんは1950年。昭和25年生まれです。
お父さんは歌がうまく、よくギターで弾き語りをしてくれたそうです。またお父さんは若い頃に画家志望だったため、八代さんも子供の頃絵画教室に通っていたそうです。
八代さんが歌手になろうと思ったのも、絵画の才能をもっているのも、お父さんの影響なのでしょうね。
歌手への道のり
歌が好きでしたが、ハスキーボイスだったことが悩みだったそう。この声はお父さん譲り。
小学校5年生の時、父親が買ってきたレコードから流れる歌声がハスキーボイスだったそう。
しかもいつもの浪曲と違う「ジャズ」。
ジェリー・ロンドンというジャズシンガーのドレスをみて憧れたそうです。
その声質と姿にあこがれて、歌手になろうと意識し始めます。
中学校を卒業後、バス会社に勤務。でもバスガイドの業務は苦手な事が多くて涙の日々。極度の人見知りで人前で話すのが苦手だったそうです。
バスガイドさんたちの勧めでキャバレーで歌うために年齢を誤魔化してオーディションに参加し合格して、バス会社辞めて勤務しますが、3日で親にみつかって勘当されてしまいました。勘当(かんどう)というのは「この家をでていけー!」というものですよね。
家を出る準備をお母さんに助けてもらい東京の親戚を頼って上京。下宿しながら音楽学院に通います。
お父さんが勘当といったら、母親は止められなかったのでしょうね。
しかし、のちのインタビューでは「父親はいつも応援してくれた」と言っていましたので、家からは追い出してしまいましたが、娘の応援をちゃんとしてくれていたようです。
ちなみにその頃のバイトは歌が歌える喫茶店だったそうです。名前が「美人喫茶」です。
このころ多くの下積み時代、自分の売り込みを多数経験されたそうですよ。
18歳になると銀座のクラブで歌うようになります。
銀座のホステスたちから人気がでて、レコードデビューに繋がっていきます。
同性から人気がでるということで、人柄が思い浮かびますね。
ちなみに歌手になってから、八代さんは祖母に「金の声」と言われて、ハスキーボイスであることが誇りになったそうです。
デビュー曲
1971年に歌手デビュー。21歳。
デビュー曲。シングル「愛は死んでも」。9月25日発売。
どんな歌を歌っていた?
デビューから1年半過ぎたころ、「なみだ恋」がオリコン12位。日本レコード大賞「歌唱賞」。
以降2年ほど10位台をキープ。「愛ひとすじ」は有線大賞で「グランプリ」。
デビュー3年目の「愛の執念」でオリコン9位。レコード大賞「歌唱賞」。
「おんなの夢」オリコン第3位。
「もう一度逢いたい」はレコード大賞「最優秀歌唱賞」。
デビュー6年目には「おんな港町」。
以降は「愛の終着駅」レコード大賞2年連続「最優秀歌唱賞」。
「舟歌」レコード大賞「金賞」など。
その他もさまざまな賞を多数受賞されています。
多くの心が揺さぶられるような歌唱で、歌を歌い続けました。
人気ランキング
八代亜紀さんの歌のランキングはいろいろありますが、いくつかのランキングを要約してみたらこちらになりました。
1位 「舟歌」(ふなうた)
男の人目線の歌。
お酒はぬるめの燗(かん)がいい♪っていう歌いだしです。
ちなみに八代さんは、肴(さかな)のイカは好きですが、お酒は苦手だそうです。
2位 「雨の慕情」(あめのぼじょう)
雨雨降れ降れもっと降れ♪ です。手の振り付けがいい味だしていますよね。
3位 「愛の終着駅」(あいのしゅうちゃくえき)
冒頭いきなりの「さぁーむいぃぃぃ夜汽車でぇぇぇ」の「寒い」のところ。
八代さんの中では高音ボイスです。
4位 「おんな港町」(おんなみなとまち)
おんなみんなとまっちぃ♪ この軽快なリズムがいいですね。歌詞はとても切ないです。
「恋よ~~~~」のところのフォールが歌いたくて歌う人も続出。
ランキングには入っていませんが、みつばんは
裕次郎さんとのデュエット曲「別れの夜明け」を推します。
お互い大好きで愛を育んできたのに、世間的に無理だから別れなきゃいけない2人の歌。
演歌以外の活動は?
ジャズやブルースも歌っています。
ボランティア活動も多くされていました。
子供の頃から好きだった水彩画だけでなく、油絵も40歳ごろから習い始めました。
フランスの「ル・サロン」展に5年連続入選して、永久会員になるという快挙を成し遂げています。
その他も人のためになる活動は進んでしていました。
ご両親がとにかく他人や仲間を思いやる人だったそうで、その遺伝子を受け継いでいますね。すごいことです。
保護猫の活動をしていたことでも有名ですよね。入院中にお家の猫ちゃんと会えないことはとてもさみしかったでしょうね。
体調を壊したきっかけは?
八代さんは昔から、ストレスが貯まると体調を崩されていました。
最初は最愛のお父さんが急逝した時。
八代さんのお父さんは八代さんが15歳で家を出てからずっと、遠く離れた熊本で活躍を見守っていました。
デビュー15周年を迎えた35歳の時に、八代さんは東京の都内に家を建てて両親を呼び、同居を始めます。
その5年と数カ月後。
お父さんは自宅で急性心不全となり、2月のある朝突然に亡くなられました。
八代さんは前日まで1週間の九州公演をされていて、やっと自宅に帰宅した夜にお父さんと言葉を交わして。
それが最後になったそうです。
お父さんがなくなられたその日は1日だけのオフだったのですが、翌日から1ヶ月間、公演があったため、つらい気持ち悲しい気持ちを隠して、1ヶ月間頑張り抜いたそうです。
そしてその1ヶ月の公演が終わった千秋楽の翌日。天井がぐるぐる周り、吐いてしまう。。
メニエール病を発症したんです。
ストレスを抱え込みながら、我慢し続けた結果、自律神経がやられてしまったのでしょうね。心と身体は繋がっていますから。
そして自己管理をしながら頑張っていましたが、10年後同じメニエール病が再発しました。このとき人間関係で多くのストレスを抱えていたと言います。
その後テレビ番組内で、脂質異常症がわかり、脳梗塞になる確率が高いという診断がされました。血液の状態がどろどろしていて血栓ができやすい状態だったんですね。
そして、今回は。
2023年の8月に体調不良を訴えられています。この時「膠原病」の一種である「抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎」を発症されていました。
確かこの時は「膠原病」とだけ報道があったように思います。
膠原病とは自律神経に異常が起きると免疫システムが誤作動を起こし自分を攻撃するようになります。さまざまな身体の不調が起きます。
膠原病と聞くと、若い女性の発症率が高い病気というイメージがありますよね。
確かに女性ホルモンの免疫異常で発症するタイプの膠原病も存在します。
膠原病にはいろいろな種類があって、ひとつにまとめて「膠原病」と言うので、膠原病の中の、どの症状のものか。それを調べないと実際は詳しいことがわかりません。
共通しているのは、ストレスや睡眠不足などで自律神経が正常に機能しなくなると、カラダの中にある免疫機能が異常をきたします。
本来、外からの異物を攻撃するために「免疫」という機能があるのに、自分を攻撃してしまうんです。
原因としては、「ストレス」「睡眠不足」「先天的な要因」などがあるそうですが、八代さんの場合、メニエール病のことを思い起こしてもなにか大きなストレスが原因となったのではないか?と考えてしまいます。
2021年の1月に27年連れ添ったご主人と離婚されています。(元マネージャーであり、元所属事務所社長でした)
ここ数年。コロナ禍くらいからは、YouTubeチャンネルを開設されたり、ベストアルバムをだしたり、松尾芸能賞を受賞したり、パリで2日間の公演を大成功させたり、シングルをだしたり。映画に出たり、アーティストたちとコラボしたり。
お仕事大好きな八代さんが、ストレスで悩むような事案が見つからないです。
人の心は見た目の出来事だけでは計り知れないとしても。
人生の大きなストレスになったとしたら、元旦那様との離婚なのかな?と、思ってしまいました。
だって、八代さんから最初はプロポーズした年下の旦那さんだったわけで。(その後旦那さんの方から1年後にプロポーズし直してくれたらしいけど)
なんていうのかな。トップスターだった八代さんのマネージャーであり、事務所社長だったわけだから。四六時中一緒にいたと思うのです。
その人とお別れしなくちゃいけなくなったのだから。
また、スケジュール管理や体調管理、生活リズムもみてくれていた旦那さんが自分の下から去るということは、付き人さんやお手伝いさんがいたとしてもかなりの負担になりますよね。
事情は本当のところはわかりませんが、心には大きな負荷がかかるのだと思います。
間質性肺炎とは?
最後に、間質性肺炎についてです。
よく聞く名前ですよね。
「肺炎」とついているので、通常の肺炎のように「肺胞」の一部に炎症がおきて、、、のような想像するかもしれませんが、実はちょっと違います。
普通の肺炎は炎症が起きたところが治れば、肺自体に異常がないので治っていきます。
ところが「間質性肺炎」は、肺の臓器自体がやられてしまう病気です。
肺胞(はいほう)の壁や、組織の部分を「間質」って呼ぶんです。この間質が硬くなって厚くなって呼吸が苦しくなっていきます。
間質性肺炎は今のところ急速に進行した場合は治療法がないと言われていて、生存率も低いんです。
悪化させないように、その症例のケースにあった間質性肺炎のための治療、投薬をして、悪くさせないための治療が行われます。
そして、膠原病が原因で間質性肺炎になるケースがとても多く、そのため窒死率があがっていて、膠原病が怖い病気だと言われるのはこの合併症のためなんですね。
全身の関節が痛くて、だるくて、熱も出て、皮膚の炎症、湿疹や息切れなども起きて。(膠原病)
さらに空咳続いて、何していても呼吸が苦しい。そして治らない。(間質性肺炎)
しかも今回は「急速進行性」でした。
ついこの間まで元気だった人が、急に容態が悪化します。
それがもし、そもそも何かのストレスから来たものだったりしたら、やりきれないですよね。
苦しくて悲しいことです。
まとめ
2023年12月30日。
歌手の八代亜紀さんが急速進行性間質性肺炎のため亡くなられました。
73歳でした。
子供の頃から歌が好きで、努力して夢を叶えた八代さん。
数々の名曲を残してくださいました。
最後に戦っていた病は、
「膠原病」の一種である「抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎」
入院されて治療を受けていましたが、残念ながら間質性肺炎を合併し、更に悪化が急速進行してしまいました。
八代亜紀さんが残された名曲は歌い続けたいと思いました。
それからストレスを貯めないようにしなくてはと思いました。
ご冥福をお祈りいたします。
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